巨椋修(おぐらおさむ)の新世界

作家・漫画家 巨椋修(おぐらおさむ)のブログ。連絡先は osaogu@yahoo.co.jp

日本武道の勘違い


武道なるものを長くやっている。

日本武道の代表的なものといえば、柔道や剣道であろう。

それには、現代人が伝統と勘違いしているものがたくさんある。

例えば、道場にある神棚。

江戸時代以前の武道場には、神棚なんてなかったのだよ。

道場に神棚が付けられるようになったのは、明治時にの国家神道が台頭してきてからなのだ。

だから、時代劇に見られるような道場に「香取大明神」「鹿島大明神」なんて掛け軸も間違いなのだ。


柔道は明治時代になって嘉納治五郎先生が創始した武道だが、「剣道」という名称は、嘉納先生が「柔術」から名称を「柔道」に改めたのに倣ったもの。


ちなみに、嘉納先生が柔道という流派を編み出したのは、若干21歳のとき。

最初の道場はわずかに12畳の狭さ。


ではなぜ、嘉納流「柔道」がそれほど日本武術界を席捲できたのか?

スポーツや体育の要素を取り入れたことは、よく知られているが、嘉納先生が、大金持ちのボンボンであったからということは、意外と知られていない。


それもただの大金持ちではない。


幕末の時代、勝海舟が起こし、坂本龍馬が塾頭になった神戸の「幕府操練所」のスポンサーが、嘉納先生のご実家である。

それは、いまも有名な灘の生一本、日本酒の「菊正宗」の造り酒屋さんだったのです。

海舟や龍馬はこの「菊正宗」の嘉納家に寄宿していたのである。


明治になり、嘉納治五郎学習院に進学するのですが、その時代でも貴族か超大金持ちのボンボンしか、入学できなかった学習院で、嘉納治五郎のあだ名は「ボン」であった。

若干21歳の、若者が創始した新興武道「柔道」を、幕末維新の立役者である勝海舟はじめ、明治の政界や財界の人たちが、後援していたというのは、意外と知られていないのであったのであった。


巨椋修(おぐらおさむ)拝