思えばぼくは、ヒクソン・グレイシーがはじめて日本に登場した『ジャパン・バリトゥード』という興行に少しだけ関わっていたのである。
またグレイシーについても、日本のマスコミが報じる2年程前から知っていた。
つまり「地球の裏側で目突き金的攻撃以外は許されるルールがある」という情報を聞いていた。
情報源は、ロスでブルース・リーの武術『ジークンドー』を伝えるヨリ・ナカムラさんからであった。
その後、ぼくはヒクソンを主人公にした漫画を描いたりもした。
ちょうどそのときヒクソン自身が、ジャパン・バリトゥードのため来日したので、その漫画を手渡したことがある。
そのときのシーンが、BAB出版のビデオ『ヒクソン・グレイシーの真実』に出ており、当時ぼくは、長髪に銀ぶちメガネであったのだが、顔がアップでビデオに出ていた。
宅八郎そっくりだった……
また、そのころぼくはある空手団体(とはいえ、実質総合格闘技)の関東支部長を頼まれて、指導をはじめたでのある。
正直よくやったと思う。
道場には、ほとんど初心者は入門してこなかった。
それでも「初心者ですが入門できますか?」と、聞いてから入ってきた。
入門してから、プロキックボクサーだの、空手や柔道の有段者だのということがわかったりしたのがほとんどである。
当時、道場でのぼくはすべての組手(スパーリング)に参加していたのだが、事故を防ぐため、組手をしながらもいつも横目で、道場生全体を見ていた。
プロキックボクシングや総合格闘技のトレーナーやセコンドもやった。
当時、もの凄い勢いで総合格闘技は進化していった時代だったので、毎日勉強しないとついていけない時代でもあった。
道場での練習が終わると、生徒はぼくの自宅、6畳一間のぼくのボロアパートへ集まり、格闘技談義をした。
人が入りきれないこともあるくらいだった。
やがてぼくは、その空手団体を辞め、いまの道場を主宰することになる。
団体を辞めたとき、いくつかの他の団体からスカウトがあったが、すべて断った。
本当のことをいうと、自分の道場を作る気もなかったのである。
作ったのは、ただ自分の練習をしたいがためであった。
格闘技界は、ヒクソンをはじめとする『グレイシー』によって大きく変わった。
ぼくはたまたま、その激流の中にいた。
苦しいことも多いけど、ちょっとおもしろい人生では…… あったな。