巨椋修(おぐらおさむ)の新世界

作家・漫画家 巨椋修(おぐらおさむ)のブログ。連絡先は osaogu@yahoo.co.jp

キリスト教の黒歴史 異端審問と魔女狩り


キリスト教の教組はパウロ

 世界で最も多く信者がいる宗教はキリスト教です。世界で23億人いるといわれています。次はイスラム教で16億人。仏教はせいぜい2億人といったところでしょうか?


 そして多くの人は、キリスト教の教組はイエス・キリストだと思っているんじゃないでしょうか。しかし、実際のところは使徒パウロなのではないか? とキリスト教を勉強した人は考えているようです。


 パウロはイエスの直弟子ではありません。元々パウロユダヤ教の一派であるナザレのイエス派を激しく憎み、殺してやろうと思っていたような人でした。ところがギッチョン、ある日昇天したイエスから声をかけられ、目からウロコが取れるように開眼し、イエスの教えを学びだしたのです。これがいまでいう「目からウロコが取れる」の語源。これは一般に「サウロ(パウロ)の改心」と言われいます。


 こうしてイエスの弟子になった(イエスはもう処刑されているけど)パウロは、メキメキと頭角を現し、リーダー的存在になっていきます。


 当時、イエスの弟子のリーダー的存在は一番弟子の使徒ペテロでした。しかしパウロはペテロが気に入らなかったらしく結構対立しているんですね。


 ペテロがユダヤ人以外と食事をしていると「何事か〜」と怒ったり、ペテロは結婚をしていたらしいのですが、これにも「何事か〜」てなぐあいに。


 ちょっと面白いのは、ペテロは後にローマ・カトリックの初代教皇(法王)とされているのですが、後にローマ・カトリックの神父さんは結婚しちゃいけないってことになっているんです。皮肉なことにそれは使徒パウロが結婚に否定的だったからなんですね。


 そしてペテロにはユダヤ人以外と食事をしたことを怒っておきながら、自分は率先してユダヤ人以外に布教活動をしちゃったりしています。このパウロなくして、キリスト教は世界に広まらなかったことは、ほぼ間違いないでしょう。



ローマ帝国キリスト教を公認・国教とすることでキリスト教の体質が変わっていった

 イエスの死後、パウロを初めイエスの弟子の布教活動で初期キリスト教ローマ帝国に広まっていきました。最初は下層階級の人たちが中心であり、ローマ皇帝を崇拝しないキリスト教徒たちは迫害されたりしていましたが、4世紀になると、上層階級にも信者が多くなってきます。


 そこで時の皇帝アウグスティヌス1世は、一大勢力になりつつあったキリスト教を公認。別にキリスト教を信仰していたわけではなく、キリスト教徒たちを味方にすることで自分の政治的地位の強化を図ったんですな。


 やがてローマ帝国キリスト教を国教とします。このあたりで、イエスが生きていた時代の教えから、かなりの変容をしてきます。例えば、マリア信仰。聖母マリアといえばイエスの母親ですが、これが女神さまになって崇拝されるようになっちゃった。


 しかもキリスト教イスラム教は元々ユダヤ教から出ているのですが、「偶像崇拝は禁止」という鉄則があります。よってユダヤ教イスラム教も偶像崇拝は決してやりません。しかしキリスト教は十字架のイエスに手を合わせ、本来崇拝の対象ではない聖母マリア像にも祈りを捧げるようになります。


 ちなみに大帝アウグスティヌス1世は聖書の編纂をして、正典と外典に分けました。自分やローマ人にとって都合の悪いことが書いているものは正典から外したようなのです。また、新約聖書ギリシャ語で書かれていましたが、これをラテン語に翻訳する仕事もさせました。

 
 そのとき、ちょっとした手を加えたといいます。例えば聖母マリアといえば処女懐妊ですが、本来のギリシャ語の聖書では処女ではなく、若い女性という意味の言葉が使われていたそうな。婚前交渉禁止がタテマエのユダヤ教では若い女性=処女と同義だったんですね。それをあえて“処女”としたのはマリアに神聖性を持たせたかったからでありましょう。


 ちなみに4世紀以前のローマ帝国の主な宗教はミトラ教ミトラ教はインドではじまった信仰ですが、ミトラって日本人にもなじみ深い神様とことって知ってました? ミトラ神はインドではマイトレーヤと呼ばれていたんです。マイトレーヤは日本では弥勒菩薩のこと。う〜ん、世界は繋がっているんですねえ。


 聖母マリアが信仰されるようになったのは、ギリシャ文明の流れを汲む多神教ローマ帝国において、女神信仰が馴染みやすかったから。さらに12月25日といえばクリスマス、イエス・キリストの誕生日とされていますが。これはミトラ教冬至のお祭りの日をイエスの誕生日とすることによって、ローマ人がキリスト教に改宗しやすくするための方便だったのです。


 こうしてこれまで迫害される側だったキリスト教はどんどんと変容していきます。


 なんつったって巨大帝国ローマの後ろ盾があるんです。怖いもんなし! しかしローマ人たちにとって都合の悪いこともありました。


 イエスの処刑を決定したのがローマ人であることです。もちろん、イエスファリサイ派と呼ばれる伝統的ユダヤ人との軋轢はありましたが、処刑を決定したのはローマ人であることに変わりありません。


 しかしローマ人たちはイエスの処刑はユダヤ人が悪いとしたのです。


 幸い、使徒パウロがテサロニケ第一の手紙2章で「イエスを殺したのはユダヤ人だ! 神の怒りは彼らに降り注ぐであろう!」と激しく憎しみの言葉を残しています。だから、キリスト教徒はユダヤ人を迫害してもいいのだとローマ人たちは考えるようになります。


 これが後の黒歴史、異端審問や魔女狩り、十字軍遠征、南米、北米における先住民虐殺、ナチスドイツのユダヤ人虐殺、KKK団による異教徒殺害につながるのです。(ちなみにKKK団は元々、白人至上主義というよりプロテスタントである彼らが異端とするカトリックユダヤ教徒をやっつけるために誕生したものです)


 このように本来、異教に寛容であり、罪を犯した女の命を守ったイエスの愛の教えはどんどんと変わっていったのです。



 ちなみに・・・ ローマカトリックの台頭は、ギリシャ文明からローマ帝国へと繋がる文明を異教の教えと破壊してしまいました。例えばむかしのローマ人といえば漫画や映画の「テルマエ・ロマエ」に見られるように、お風呂好き、清潔好きだったのが、キリスト教が国教になってから、ローマの温泉は廃止され、ヨーロッパ人は年に一回くらいしかお風呂に入らない不潔な人たちとなってしまったのです。



●そしてプロテスタントが生まれた
 
キリスト教黒歴史である異端審問や魔女狩りは、なぜ行われたのでしょうか? 一つは政治的な意味、つまり大衆をカトリック教会や政治への怒りから目をそらすため、あえて悪者を仕立てる必要があったからです。いまでもポピュリストといわれる政治家さんは、あえて敵を作り民衆を誘導します。小泉元総理や橋下元大阪府知事小池都知事トランプ大統領なんかがそうですね。


 中世のカトリック教会は、相当に腐敗していたわけですが、異教徒が悪い、ユダヤ人が悪い、あいつは異端だ、あいつは魔女だといって、自分たちの腐敗から大衆の目を逸らせ、さらにもう一つの目的、誰かを異端だとすることで処刑し、その財産を没収することができたのです。


 やがてそんな腐敗したカトリック教会に敢然と立ち向かう人たちが出てきます。プロテスタントといわれる人たち、プロテスタントとは「抗議する者」という意味ですが、それはもちろん腐敗したカトリック教会への抗議です。

キリスト教徒なら、ちゃんとした信仰生活を送らんかい!」というわけです。彼らはカトリックの人たちより、はるかに信仰に厳しくマジメ! そしてマジメに一生懸命カトリック以上に異端審問や魔女狩りユダヤ人迫害をはじめます。

 ヨーロッパのカトリックの国って、例えばイタリアとかフランスとかじゃないですか。食べ物美味しそうですよね。でもプロテスタントの国、ドイツとかイギリスとか、食べ物はそんなに美味しいイメージないですよね。カトリックでは一生懸命、神への信仰生活をするのはプロである神父。一般の信者はゆるいんです。でもプロテスタントは、信者一人ひとりが、神との信仰が試されると考えるため、信者一人ひとりがカトリックに比べてストイックなんです。


 彼らは1人ひとりが信仰を試されていると考えるため、日常生活もストイック。例えばカトリックが多い中米や南米では、ちょちょっと征服した白人は先住民の女性とちょちょっとやっちゃって、混血がすすみましたが、プロテスタント国である北米では、ストイックに先住民を皆殺しにしようとして、あまり混血はなかったことからもわかります。


 このストイックさが、一生懸命働くこと(お金を儲けること)は神に認められること、という考えに至り、資本主義や産業革命が生まれ、るんですがそれはまた今度書きましょう。


 キリスト教黒歴史、異端審問と魔女狩りについて書きましたが、別にキリスト教を非難するためではありません。

 我々はいまも、誰かを【異端】と決めつけたり、【魔女】【悪魔】【悪者】と決めつけて、過剰に叩いたり排除しようとしたりすることがあります。


 イエスは罪を犯した女性が石打ちの刑で処刑されようとしたとき


「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」


 といいました。そして女性を処刑しようとした人は誰も石を投げることはできませんでした。


 不倫など。何かでしくじった芸能人や政治家、自分が気に入らない主義の人を過剰に叩く・・・ これは現在の魔女狩りかもしれません。


永井豪作『デビルマン』より 講談社刊)


 いまの時代、自分も罪人であるにもかかわらず、他の誰かを過剰に責め、自分のことはさておいて、石を投げつける人がとても多くなっているのではないでしょうか?


 我々はみんな罪びとであるという自覚があれば、そんなことはできないはずなのに・・・


 我々は決して魔女狩りなどしないという自戒が必要なのではないでしょうか?