●イエスの直弟子12使徒のトマスはインドにまで布教に来ていた!
イエス・キリストには代表的な12人の弟子がいた。いわゆる12使徒である。
12使徒の1人にトマスという男がいる。新約聖書の福音書の中で、イエスが十字架で死んだあと復活するのだが、トマスは信ぜず、イエスが目の前に現れたときに、イエスが十字架の上で死ぬときに脇腹を槍で突かれてとどめを刺されたときの傷に、指を入れて確かめるというエピソードで有名な使徒である。
(イエスの傷に指を入れるトマス)
正式な聖書として認められていない外典に、そのトマスの行いを書き残した『トマス行伝』というものによると、トマスはインドにまで布教に行き殺され埋葬されたという。
インドに使徒トマスの墓があるというのはマルコ・ポーロの『東方見聞録』にも記されており、おそらく間違いないことであろう。
トマスの布教はそれなりに成功したらしく、弟子も多くいたようだ。トマスの弟子たちは『トマス派』と呼ばれ、現在では『インド正教会』となったという説がある。
トマスが伝道していた時代、インドの仏教には救済の思想はなかった。ブッダの教えは、出家して修行し悟りを開くことで一般人の救済思想はなかったのだ。
ところがトマスの教え、ひいてはイエス・キリストの教えは違った。どんな人でも神を信じれば救われる。イエスは十字架の上で、となりの罪人、つまり死刑になるほどの犯罪を行った悪人に対して「あなたは、きょう私と一緒にパラダイスにいるでしょう」と、その罪人を救済したのだ。
階級差別が激しいバラモン教や、一般人を助けない原始仏教と違い、トマスとイエスの教えは、一般人を救済する。いわんや悪人もや・・・ なのだ。
トマスがインドで布教する少し前から、インド仏教界では二つの派閥が対立していた。出家した上座部といわれる僧たちと大衆部である。
そんなところにやってきたトマスの教えはインドに根付いた。それから数十年、あるいは100年ほどしてインド仏教は二つの派に分かれることになる。
一般人をも救う大乗仏教と、昔ながらの原始仏教を継承した上座部仏教である。
一説によると大乗仏教はイエスの教えが仏教化したものではないかという説があるのだ。
(イエス・キリスト)
大乗仏教の中で代表的なものに『浄土教』というものがある。日本では浄土宗、浄土真宗が有名だ。この浄土教は、他の仏教宗派とずいぶんと違っている。むしろキリスト教に似ているのだ。
どう似ていて、どう違うのか?
キリスト教は1人の神エホバのみを信仰している。多くの仏教は、インドの神や菩薩、如来といった神仏がいて多神教的なのだが、浄土教では阿弥陀如来のみを信仰している。
キリスト教は神の国に入ることを最終目的としている。浄土教は極楽浄土に行くことを目的にしている。他の仏教は悟りを開き輪廻から脱すること。
キリスト教は神の代わりにイエスが天から下ってきて、人々の救い主となった。浄土教では釈迦の代わりに弥勒菩薩が下ってきて人々を救う。
などなどがある。
(弥勒菩薩)
ちなみに比較宗教学のエリザベス・ゴードンは弥勒の語源は、日本ではミロク→中国ではミレフ→インドではマイトレィア→ギリシャではキリスト→そしてへブルではメシアとなっており、ミロクの語源はヘブル語のメシアやキリストであるらしい。
浄土真宗本願寺派の本山である西本願寺には「世尊布施論」という教本がある。内容はなんと、中国に入ってきたキリスト教(景教)ネストリウス派の聖典で「世尊」とは釈迦ではなくイエス・キリストのことで、書かれているのは、マタイによる福音書の「山上の垂訓」の部分であるそうな。
(親鸞)
手に入れたのは親鸞上人。親鸞上人の言葉を集めたものに『歎異抄』がある。その中に有名な
「善人尚もて往生をとぐいわんや悪人をや」
という言葉がある。意味は「善人だって悟りをひらくことができるのだから、まして悪人が悟りをひらき、極楽浄土に到達できないわけがない」というもの。
これはイエスが十字架に架けられたとき、隣りの罪人を救済したことと共通する。もしかしたら、この言葉は、イエスの言葉に影響されたのかもしれない。
また真言宗開祖の空海や天台宗の最澄も中国でキリスト教の聖書を読んでいたらしい。
密教で行われる灌頂(かんじょう)という、頭頂に水を灌ぐ儀式は、キリスト教の影響ではないかという説さえあるくらいだ。
どうも仏教はキリスト教からの影響も多そうである。こんなことを考えているとワックワクしちゃうね(笑)。
巨椋修(おぐらおさむ)拝