巨椋修(おぐらおさむ)の新世界

作家・漫画家 巨椋修(おぐらおさむ)のブログ。連絡先は osaogu@yahoo.co.jp

生命を食べるということ


前回「動物を飼うということ」という記事を書いた。

動物を飼うということは、その動物を飼うことによって、何らかの利益を得ることである。

・愛したいという心や、動物から癒されたいという気持ち。
・動物を飼うことで狩猟や番犬として役立たせる。
・馬を飼って早く遠くまで移動する。
・牛を飼ってトラクター代わりに使ったり、思い荷物を運ばせる。

などなどがある。

それともう一つ。

食べるために動物を飼うというのもある。

狩猟民族で畜産が盛んだったヨーロッパや、モンゴル、アラブでは、犬は食料にするよりも、狩猟犬や牧羊犬として使役したほうが“お得”だから、あまり犬を食べない。

しかし、農耕民族である日本、中国、韓国などでは、それほど狩猟をするわけでもないし、牧畜も盛んでないので、犬は普通に食料にされた。

日本では猫も“山ふぐ”と称して食べていたという。

しかし、ヨーロッパやアメリカの人々がまったく犬や猫を食べないかというと、そうでもない。

1870年、クリスマスの日におけるフランスの一流料理店「ヴォアザン」のメニューを見てみよう。

前菜   ロバの頭の詰め物

スープ  象のコンソメ

アントレ ラクダのあぶり肉イギリス風、カンガルーのコショウ入りシチュー、熊のあぶり肋骨コショウ入りソース添え

ロチ   狼の腿肉・鹿のソース添え、猫の鼠添え


なんてものがある。

これは上流階級の人たちが来るレストランだが、庶民は何を食べていたかというと、犬、猫、鼠の肉がサンジェルマン市場の肉屋に並んでいたという。

と……、いっても普段からフランス人がこのようなものを食べていたわけではない。

実は普仏戦争に敗れた後、パリコミューン(フランスの革命的自治政府)抵抗をしていたため、プロイセン軍にパリを包囲されてしまい、市内は食料不足になってしまったのだ。

よって、一流レストランに並んだお肉たちの供給源は、餌をやることができなくなった動物園であり。

庶民の肉屋には、野良犬、野良猫、鼠、やがては飼い犬、飼い猫たちであった。

このような肉に対して、フランス人は特に嫌がりもせずに食べていたらしい。


(参照;「食悦奇譚―東西味の五千年」 塚田 孝雄著 時事通信社刊)


思えば、我々が勝手に禁欲主義者だと思っているイエス・キリストは、他の宗教指導者から「大酒のみの大めし喰らい」とののしられているくらいで、なかなか食い意地のはった健啖家であったらしい。お腹が空いたときに、いちじくの木に実がなっていないことを怒って、その木を枯らしてしまったことが聖書に記されているくらいだ。


釈迦もまた、決して菜食主義者ではなかった。
当時、修行者は托鉢をして人々から食料をお布施としていただくのであるが、その食料には、当然、お肉も入っていた。
せっかくのお布施を廃棄することなど、当時の修行者はしなかったから、釈迦も普通に肉食をしていた。
釈迦は80歳まで生きた人だが、長寿だったのは、むしろ好き嫌いなく何でも食べていたからだろう。
ちなみに釈迦の最期は、お布施でいただいた豚肉にあたってなくなったという。(キノコにあたったという説もある)


人が生きるというのは、植物も含めて生きとし生けるものを命を食べるということでもある。

ときどき「わたしは命を殺すのが可愛そうなので菜食主義者です」なんていう人がいる。

しかし植物だって命なのだ。中には「卵の無精卵は命ではありませんので食べます」なんていう人もいる。

菜食主義はその人の自由なので、文句をいうつもりは一切無いが、“無精卵は命じゃないから食べる”という人の心理は、ちょっと気持ち悪いと思うのはわたしだけだろうか?

もちろん、無精卵を食べることが気持ち悪いのではなく、「無精卵は命ではないから食べる」という人の心理が、いささかグロテスクに感じるのだ。

だが、その人がそれで満足ならそれでいい。


わたしは自分が許せる範囲での「ガストロノミア(食道楽)」でいたいし「エピキュリアン(享楽主義者)」でいたいと思っている。

そして美味しく食べるために断食や節食をしたり、享楽をより深く味わうために禁欲をしたりもするのだ。

わたしたちは他の命を奪って生きている人間だもの。(笑)

命を奪って食べるということは、生きるということなのだ。

(この文章は、前回に「動物を飼うということ」で書いたクマ牧場のクマを食べてしまえという意味ではありませんので、念のため)


巨椋修(おぐらおさむ)拝