秋田で2名の死亡者を出したクマ牧場が、飼育しているクマ29頭の譲渡先もなく、経営がうまくいかず、年に200万円の赤字の状態ということ、従業員がいなくなり他のクマ牧場や動物園にも、譲渡を断られクマの安楽死を考えているという。
これに対して
「一度飼った動物は最後まで面倒見るべき」
「殺処分もやむなし」
という意見がある。
経営者や動物愛護団体、愛護者たちは殺処分を阻止すべく動いていることだろうが、おそらくほとんどのクマは殺処分ということになるのだろう。
いくら動物好きの人たちが、「殺さないで」といったところで、行き場のないクマを飼育し続けることは難しい。
実のところ、これはクマだけの話しではないのだ。
日本において、犬猫などのペットが廃棄され年間約40万頭が殺処分となっている。
それに対して殺処分をしている保健所等に、「鬼!」と罵声を浴びせる人もいるが、保健所の人たちだって好んで殺しているわけではない。
同じように、動物を飼っていて殺処分をお願いする人を責める人もいるが、中にはやむにやまれぬ事情がある人もあろう。
むしろ、いま、殺処分を一切廃止してしまうと、捨てられた動物たちはどこに行くというのだ。
殺そうとしていた飼い主に戻したとしても、虐待されるか、こっそり他で捨てられるかしかない動物たちも多いはずだ。
どちらにしても動物にとって悲劇である。
動物を飼うということは、人間にとって“業”のようなものだ。
人間が動物を飼うようになったのは、犬ならば狼を捕らえ、飼育調教し、番犬や猟犬にしたの最初。
猫の場合、抱いて暖をとるために飼い出したのが最初だという。
牛や馬はトラクターの代わりと乗り物用。そして乳をとったり食肉にするためであった。
羊や山羊、鶏も食肉や卵という食料の確保のためである。
手元で飼育しておくと、狩りにいかなくても食料を確保できるというわけだ。
現代人の場合、牧畜を使役に使うため以外であれば、“可愛がるため”であり“癒しの道具”として飼っている。
クマ牧場や動物園で飼っているのは、見せ物にするためである。
つまりは……
人間が自分の欲、あるいは得をするために動物を飼っていることになる。
猫や犬もしかりで、一般家庭に飼われている犬猫は、動物に癒しを与えるため、可愛がりたいという人間の欲のために買われている場合がほとんどといって間違いはない。
場合によっては家族として飼われている場合もある。
現代の愛玩動物のほとんどは【愛情のはけぐち】として飼育されているのだ。
また、薬物開発のために飼っているという場合もあろう。これももまた、人間の欲のために飼われているということになる。
これは一種、“人間の持つ業”なのではないだろうか?
こんかいのクマ牧場のクマたちも、そんな人間の“業”によって殺されるのであろうと思う。
巨椋修(おぐらおさむ)