●歴史とは記憶と記録である
歴史とは記憶と記録であるという。
現代において、ナポレオンという人物と会った人はいないが、ナポレオンという人がいたということを疑う人はまずいないだろう。
それは記録に残っているからだ。
しかしその一方で、自分の曾おじいちゃんとか、曾々おばあちゃん、あるいは4代前5代前のご先祖の名前を知っている人は少ない。
確かにその人は存在していたはずなのに、誰もその人を知らないということがある。
その人は確かに存在していたはずなのに、だれも知らないのだ。
知っているという人だって、せいぜい名前くらいでしかないだろう。
それは、もしかしたら“いなかった”ということに等しいことなのかも知れない。
ふとそんなことを考えた。
●命とは何か?
「命」というものは、ぼくたちは、自分という個人、固体の心臓やら脳やらが動かなくなってしまったときに失われると思っている。
しかし、命とは何だろう?
ぼくたちの細胞は命ではないのか?
命というのは、親から子、子から孫、やがて無限なる子孫へと繋がっているとしたら、それは繋がっている限り“永遠の命”に近いともいえるだろう。
と、すれば……
ぼくたち一代の命とは、単に個人的な記憶であるのかも知れない。
いや、違うな。
それでは記憶喪失者は死んでいることになる。
と、すれば……
「命」ではなく「人生」は記憶なのであろう。
もっというと「個人の人生とは記憶であり記録」なのであろう。
●人生が記憶だとすると過去は変えられる?
と、すれば・・・自分が過去に生きた人生の・・・ 記憶の解釈を変えることで、その過去人生は変わるということだ。
つらかった思い出も、「あの日があったから、いまの自分がある」と、好意的に解釈をすることで、つらかったと思っていた人生が、有意義で有益なものに変わる。
そういった意味で、人生は変えられる。
夜中に寝付けなくて、ふとそんなこと考えてしまった巨椋修の午前3時23分の記録であった。(苦笑)
巨椋修(おぐらおさむ)拝