『真田太平記』という時代小説を読んでいます。
戦国時代を描いた長編物語なんですけど、信玄、信長、秀吉、家康なんていう人たちが登場してくるのです。
歴史なんていうのは、それは人々の人生もそうなんでしょうが、
“ちょっとしたこと”
“ささいなこと”
の連鎖で、大きく変わってきますね。
極端に言えば、交通事故。
ほんの数秒、早いか遅いかで事故にあうあわないかが違ってきます。
事故にあった人が、朝家を出るときに数秒間、靴を履くのが手間取っていれば、事故にあわなかったかも知れない。
歴史や人生は、後になってみると、すごい偶然が重なっていて、まるで運命が決まっているように見えるもの。
でも、いまの次の一瞬でさえ、ぼくたちにはまるでわからない。
後になって、「偶然は必然であったのだ」なんて、したり顔でいうしかない。
と……すれば……
運命論は、「あきらめ論」としてすごく有効です。
過去をあきらめ、未来をあきらめ受容するなら、人生はずいぶんと楽になる。
思えば、キリスト教、イスラム教、仏教とも、一種の「あきらめ論」的な思想があります。
「神の御心のままに」
「諸行無常」
神仏が、ぼくの右の耳元でささやきます。
「あきらめろ、あきらめろ、楽になるぞ〜」
悪魔と鬼が、ぼくの左の耳元でささやきます。
「あきらめるな、あきらめるな」
うしし、ぼくは自分の都合で、テキトウにいい加減に解釈するとしましょう。
なんつっても、ぼくの座右の銘は
「果報は寝て待て」
「棚からぼた餅」
「一石二鳥」
「笑う角には福がある」
ですからね。
って、いいのか?
これでいいのかオレ!?」
(あ、これも神か悪魔のささやきか……(笑))