巨椋修(おぐらおさむ)の新世界

作家・漫画家 巨椋修(おぐらおさむ)のブログ。連絡先は osaogu@yahoo.co.jp

運命論はあきらめ論か


真田太平記』という時代小説を読んでいます。

戦国時代を描いた長編物語なんですけど、信玄、信長、秀吉、家康なんていう人たちが登場してくるのです。

歴史なんていうのは、それは人々の人生もそうなんでしょうが、

“ちょっとしたこと”

“ささいなこと”

の連鎖で、大きく変わってきますね。

極端に言えば、交通事故。

ほんの数秒、早いか遅いかで事故にあうあわないかが違ってきます。

事故にあった人が、朝家を出るときに数秒間、靴を履くのが手間取っていれば、事故にあわなかったかも知れない。

歴史や人生は、後になってみると、すごい偶然が重なっていて、まるで運命が決まっているように見えるもの。

でも、いまの次の一瞬でさえ、ぼくたちにはまるでわからない。

後になって、「偶然は必然であったのだ」なんて、したり顔でいうしかない。


と……すれば……


運命論は、「あきらめ論」としてすごく有効です。

過去をあきらめ、未来をあきらめ受容するなら、人生はずいぶんと楽になる。


思えば、キリスト教イスラム教、仏教とも、一種の「あきらめ論」的な思想があります。

「神の御心のままに

諸行無常

神仏が、ぼくの右の耳元でささやきます。

「あきらめろ、あきらめろ、楽になるぞ〜」


悪魔と鬼が、ぼくの左の耳元でささやきます。

「あきらめるな、あきらめるな」


うしし、ぼくは自分の都合で、テキトウにいい加減に解釈するとしましょう。

なんつっても、ぼくの座右の銘

「果報は寝て待て」

「棚からぼた餅」

「一石二鳥」

「笑う角には福がある」


ですからね。


って、いいのか?

これでいいのかオレ!?」

(あ、これも神か悪魔のささやきか……(笑))