「日本人は、そのときどきの“空気”に支配されている」
と、喝破したのは評論家の山本七平さんである。
“空気”とは、酸素と窒素が混ざった気体のことではない。その場の雰囲気のことである。
実に言いえて妙ではないか。
空気=雰囲気は、日本人集団を支配する。
空気=雰囲気は、日本人集団の絶対的権力である。
空気=雰囲気は、日本人集団にとって神である!
絶対的権力を持つ神に対して、道理も論理も正義も常識も通用しない。
そして何よりも恐ろしいのは、空気というのは一定しない。あいまいでふわふわとしていてファジーである。
国の神があいまいだとしたらどうなるか?
当然、国民もあいまいなのである。
道理も道徳も倫理も論理もあいまいである。
そのあいまいさは、「みんなやってるじゃん」に集約される。
みんなやっていれば、どのようなことでもやっていいと解釈する。それは、その場の空気が“やっていい”雰囲気であるからだ。
ぼくは20年ほど前から極力人と議論をしないように心がけてきた。
議論とは、「お互いの考えや主張を論じ合う、つまり話し合う」ということである。
しかし、空気や雰囲気が支配するこの国では、議論は成り立たない。
なぜか?
自分の考え、主張がないからだ。主張だと思っているのは、その場、その時代の空気である。
よって議論にならない。
ただし、議論のようなものは、ある。
しかしそれは論理にぶつかり合いではなく、感情や情緒のぶつかり合いでしかない。
感情のぶつかり合いは、議論とは言えない。
ただの口ゲンカである!!
口ゲンカであるから、相手の論を論破しようとするのではなく、相手の人格を否定したり攻撃したりする。
よって議論(と多くの人が思っている口ゲンカ)をしても、その後に得るものは少なく、残るのは不快感や恨みであることが多いのだ。
つまりは幼稚なのである!
よく「キレる子ども」などという。
「キレる」とは何か?
我を失い、言葉を失うことを言う。
もっともキレやすい年齢は何歳かというとゼロ歳である。人間は月日を重ねることで、経験を積み、成長し感情をコントロールするようになってくる。
論理と感情のバランスをとることが、人格者の条件でもある。
自我が発達しておらず、語彙(ごい)が少ない子どもが、キレやすいの当たり前のことだ。
キレないように、人格を発達させ言葉で自分の言いたいことを伝えるようにするのを教育という。
しかしながら、子どもを教え導くはずの大人が、議論などできず口ゲンカしかできない。
それどころか、キレる大人のなんと多いことか。
よってぼくは極力人との議論を避けてきたのだ。
それは議論にならないからだ。
議論にならないと言うことを別の表現では何と言うか?
お話しにならない!!
と、言うのだ。