巨椋修(おぐらおさむ)の新世界

作家・漫画家 巨椋修(おぐらおさむ)のブログ。連絡先は osaogu@yahoo.co.jp

言葉と論理

前回の「あいまいな神が支配する国」という記事について、以下のようなメールがきたのですよ。



『議論…論理』 


極論すると日本人の論理は「風が吹くと桶屋が儲かる」的であり、同じ事を論じる際、ドイツ人の論理の始まりは「風とは何か」、という、風そのものの「定義」から始まるようです。

日本人はどうも、それが長所でもあり、短所でもあると思うのですが、何か、言葉にしない、とか、あえて口にしない、とか、それを言っちゃお終いよ、とか、言葉にしない事をある意味美徳としている文化がある。

存在を言葉で定義することが苦手のような文化と言えましょう。

しかし、私の微々たる経験から言っても、それでは外国の人はおろか、日本人同志でも本当に分かりあえる事は難しい。

議論が議論になる、(単なる感情論や口ゲンカにならない)最低条件として、異なる文化(文明でなく)を理解する拠り所としての「定義」、それを始めなければ、意味のある議論はできないような気がします。







「最初に言葉(ロゴス)あり、言葉(ロゴス)は神と共にあり」
ヨハネ福音書1章1節より―



ギリシャ語の言葉(ロゴス)とは、英語でいう論理(ロジック)のことである。

2000年前に書かれた聖書の福音書は、キリスト教イスラム教の教典として、世界の思想・思考を席巻することになる。

福音書だけではない。

やはり聖書のモーセ五書キリスト教イスラム教の教典となっている。

「最初に言葉あり、言葉は神と共にあり」と書かれているくらい、言葉というのは、大切なもの。

どれくらい大切か?

モーセ五書の『出エジプト記』は、映画「十戒」で日本人にも有名だが、エジプトで奴隷として圧迫されていたイスラエル人は、モーセというリーダーのもと、エジプトを脱出する。

しかし人間というのは、わがままなもの。

イスラエル人は奴隷から解放されたものの、何年も荒野をさまようことになる。

あてのない荒野でのテント暮らしに、イスラエル人は不安と不満が充満した。

そのたびにイスラエルの神は、イスラエル人を助ける。水を与え、食物を与える。

しかしイスラエル人は、不満がいっぱい。

「こんな不安定な暮らしならエジプトで奴隷のままでいた方がマシ」と思ったに違いない。

イスラエル人は、神との契約を破り、他の神を信仰しようとする始末。

神が怒ったの怒らないのって、何といっても全知全能の神。

イスラエル人の代表モーセは、神への取り成しをしなければならない。

神との取り成しとは何か?

すなわち、神との議論です。

神との議論に勝たないと、イスラエル人は、神の怒りにふれて全滅しちゃう。

なんつってもイスラエルの伝説では、神の怒りにふれた『ソドムとゴモラ』の町が、神を信仰する1家族以外全滅しているのです。

まさしく一族の命運を賭けた議論!

人間モーセが、全知全能の絶対神と議論をする!

この恐ろしさ! 文字通りの命がけ!

この議論に、あいまいな言葉は命取りになる。

よってどくとるKさんがおっしゃるように、「言葉の定義づけ」は、物事をロジカルに考えるときに重要となりますな。


例えば、赤は赤であるか?

赤は赤であるか?

といったことを、定義づけしておかないと、とんでもない誤解を生みかねない。


特に異文化との交渉においては、「定義」を決めておかないと、“お話し”にならない。


また、「定義」は時代によって変貌するものですから、確認と訂正も必要となってきます。

人間は、言葉によって交流をする動物です。






「オレの目を見ろ、なんにも言うな」






とか言う人がいるけど、







そんなもんほとんど通用しない!







ウソだと思ったら、アナタが「口で言わなくてもわかる!」って、思っている人に







無言電話をしてみると、いかに言葉が大切かがわかりますよ。(笑)