日本武術の独特さは、宗教との結びつきにある。
ボクシング・レスリング・フェンシングの選手が、自分を技術を高めるために日々キリスト教会やイスラムの礼拝所に籠るなどという話しは聞いたことがない。
せいぜい勝負の勝利をお祈りするくらいではなかろうか?
中国拳法の本山ともいうべき嵩山少林寺では僧侶が拳法修行をしているそうだが、だからといって数多くある少林拳各派の修行者が拳法ではなく、禅の修行をするという話しも聞いたことがない。
(日本の少林寺拳法は、稽古に座禅を取り入れているが、これは中国から伝わった拳法というより、日本の柔術や拳法を日本で再編した日本生まれの武道で、中国武術とはほとんど関係がない)
ところが日本武道武術の修行者は、いまでも座禅を組む人が多い。
日本には『剣禅一如』という言葉があるがごとく、本来人斬り術であるはずの剣術と禅という仏教の教えが一緒であるということが、我々日本人は何の疑問もなく、ある。
禅を修行した剣士としては幕末の剣士山岡鉄舟や勝海舟、江戸時代初期の最強剣士宮本武蔵などが有名だ。
また、日本剣術でもっとも古い香取神道流をはじめ、鹿島神宮に伝えられていたという鹿島神流など神道との関係も深い。
これは日本武術が、戦いの前に、あるいは戦いの最中に、心の平常心を求めて座禅や祈りをしたのはもちろんのこと、日本人は武道武術を修行することで、ただ単に強くなるだけではなく、人格人徳・精神性の向上も合わせて修行したことにある。
だから日本において武道武術化は強いだけでは尊敬されない。
現代の大相撲でさえ、横綱がただ勝ちに行くだけの相撲をとった場合、かならずその横綱は批難される。
そう、日本人の美意識として勝負に「勝てれば何をしてもいい」という思想はない。
「勝てればいい」のではなく、たとえ奇襲で勝ったとしても、ちゃんと礼をつくさなければ日本人は認めないのである。
これはいまの日本スポーツにも継承されていて、たとえば高校野球で逆転ホームランを打ったときあまりはしゃぎすぎたら、そのホームランが無効にされることがある。
大相撲でも相手を土俵外に落とした後、手を差し伸べないと「なんだあいつ」と言われたりもする。
これが日本人の美意識であり、礼の精神なのだ。
ただしこれはマナーではない。昭和の横綱北の湖は転がした相手に手を差し伸べなかった。そのため批難されたが、それは「負けた相手に下手に同情するのはかえって失礼」という礼でもあったのだ。
「礼」とは「思いやり」であり「心配り」であろう。
日本武道武術は「礼」を重んじる。つまり「思いやり」や「心配り」を重んじる。
日本武術武道は、ただの殺人術や勝敗を決めるスポーツにあらず。だからこそ「禅」を取り入れ「平常心」「人格の向上」を目指す。
新陰流では「殺人刀活人剣(せつにんとうかつにんけん)」という言葉を使う。これは元々仏教用語である。
人を殺す剣が、使い方によって人を生かす剣になるという意味である。
日本は武道大国で、「judo」「karate」は世界に広まった。
しかしその奥底にある精神性が消えつつあると思う。それは寂しいことだ。
巨椋修(おぐらおさむ)