「愛国心は愛郷心でいいんじゃないか?」なんて言うと、熱狂的な愛国の人に叩かれそうだけど、でもそれでいいと思うのですよ。
若い人は知らないかも知れないけど、70年代とか80年代に「ぼくは愛国者だ」なんていうと、自称「頭のいい進歩的な人」から「キミは戦争賛美者なのか? 軍国主義者なのか?」と、つるし上げを食らう時代もあった。
ぼくは日本という国が好きだから「でもぼくは日本が好きです」というと、リッパな大人が「でも日本は過去ひどいことをしたひどい国なんだ」と同時に「日本はアメリカみたいな自由な国にならなきゃ」なんて説教を食らいました。これホント。
あと学校の先生からは「中国や北朝鮮みたいな国にならないと」なんて言う人もいました。これもホント。
でもぼくはずっと思ってたんです。「なんで自分の郷里を卑下しなきゃいけないんだ」ってね。
自分の郷里を卑下することなんてない。愛国心って愛郷心でいいと思う。「オラの村はこんなにいいところがあるだよ」っていうのでいいんだと思うのですよ。
●スポーツにみる愛郷心
高校野球だとで、自分の出身都道府県を理屈抜きで応援するじゃないですか。
オリンピックでも自分の生まれた国、ぼくなら日本を応援する。それは自分の郷里である日本を愛しているからです。
でも高校野球にせよ、アマチュア。スポーツの強豪校の選手って、みんながみんな、その都道府県出身っていうわけじゃない。
スカウトが全国を回っていい選手を集めてくる。北海道に沖縄の選手がいたり、沖縄に青森の選手がいてもおかしくない。
でも応援する人はその選手を排除しようとはしないし、それぞれの都道府県代表として応援するじゃない。それでいいんだと思うのですよ。
EUのプロサッカーだって、アフリカ出身だろうがアジア出身だろうが、チームのために活躍してくれるのなら、受け入れて応援しますもんね。
●もう国家とか民族とかはいいんじゃないか?
そもそも愛国心っていうのは人工的なものでね。江戸時代の村とかだったら、隣村との水争い、つまり田んぼに引く水源争いで殺し合いまで発展することもありました。
でもそれは自分の共同体である村で、国家意識から「この国を守ろう」とか「他国に攻め入ろう」なんてのはなかった。
戦国時代だと、人口のうち1割程度だった武士階級が、領地の取り合いをしていたんだけど、圧倒的多数の百姓町人には、我が●●の国の領地を守ろうとか隣の領地を取ろうなんてのはなかったと思うのです。
明治になって近代国家ができて、国民が生まれた。そこで国家としては国民に愛国心をもってもらわないといけなくなった。その理由は『国民皆兵』
●民主主義が生んだ国民皆兵
時代と場所をかえてヨーロッパの話しをします。
ヨーロッパは日本と違って、ず~~~~っと戦争をしておりました。でも戦争で実際に戦うのは、わずかに0.5~2%程度しかいなかった貴族か傭兵が中心。
それが変わったのはフランス革命。市民が兵隊になってこれまでの支配層をやっつけた。そのあといろいろあったんだけど、王様はいらない民衆が王様でいいんじゃない? って生まれたのが民主政治。ヨーロッパでいうところの共和制ってやつ。
民主政治は民が主だから、民が国を守らないといけない。
そこで出て来たのが『国民皆兵』
さあ大変。国家は民をすべて兵隊にしたいっていう思想が生まれた。
そこで国の支配層が言い出したのが「愛国心」
軍隊に入ったときあ一定の知識があり、集団で行動できるようにするためには、教育が必要です。そのために生まれたのが義務教育。
国家は国民に「愛国心を持て!」と学校その他、ありとあらゆる手段で洗脳してきました。目的は国民を迷わず戦争に参加させるために。
●世界は溶けていく
いまの日本は実質世界第4位の移民大国で、海外から日本に移り住んでいる人や、その人たちの日本生まれの子どももいます。
昔と違って、国境の壁はかなり低くなっていて、我々は気軽に外国に行き、学び、働くことができるようになりました。
戦争ばかりしてきたヨーロッパは20世紀末に欧州連合を作り、通貨を統一、関税の撤廃、交通の自由を実行。国家という壁は諸外国以上に低くなりました。
これを人々は「国が溶ける」というようになりました。
日本という国は、四方を海に閉ざされていて、さらに江戸時代は270年間ほとんど外国と交流せずに来ました。民族も琉球やアイヌを除きほとんどが大和民族でした。そんな国ですから、他の国より溶けにくいのかも知れません。
しかしいまや、ネットを通して気軽に海外の人と交流ができる。フェイスブックやスカイプなどで無料で話もできる。
確実に国境の壁は低くなってきています。
国境ややがて国内の県境のようになるかも知れない。というかなるでしょう。
ぼくはこれまでの「国のために戦争に行く」的な愛国心ではなく、これからは郷里を想う愛郷心でいいんじゃないかと思っています。