ときどき
「見たことがないから信じない」
「見えないからいない」
などという人がいる。
見えないものでも、実際にあるものがたくさんある。
「見えないものはいない」ということもないのだ。
見えないものは見えないところにいるのである。
また、物理的には「無い」ものであっても、現実に「在る」ものもたくさんある。
思い出や歴史、記録などはその一つだ。
これらのものを「過去のものだから現実には無い」という人がいるとすれば、いま生きていること事態が幻ということになる。
なぜならば「いま」というのは一瞬のことで、「いま」と思った瞬間にすでに過去になっているからだ。
0.1秒前のことは現実ではなく過去の幻というのであれば、人は幻の中に存在しているに等しい。
人の思念や思想、愛情もまた物理的には「無い」のかも知れないが、しかしそれはやはり確実に「存在する」のだ。
このように「見えなくても在る」ものはたくさんある。
しかしその一方、「見えるから在る」といいきるのもどうかと思う。
それは見間違いかも知れないし、錯覚かも知れない。もしかしたらその人がついた嘘かも知れない。
いま目の前にあり、触っていると思っているものだって幻かも知れない。
あなたの銀行の預金だって、はたして「いま、本当に在る」のかどうかは、実は誰にもわからない。
そうやって考えていくと、どちらにせよ、人は幻の中に存在しているのと、あまり変わらないようにも思える。
いわゆる夢の中、夢中である。
だからきっと夢中で生きるというのは限りなく正解に近いのかも知れない。
巨椋修(おぐらおさむ)拝