自分とは何かと考えたとき、それは「意識」とか「心」とかいうものなんだろうと思う。
個人というものは、皮膚に閉じ込められた肉体と、頭蓋骨に遮蔽された脳でできていて、個人の快や不快は直接他人には伝わらない。
自分の腕や足は自分の一部であって、ちょん切ってしまえば、その手足はもはや自分ではないのだから。
顔を手術か何かで、ぜんぜん違う顔にしたとしても、その顔は自分の顔。
たとえ「別人のよう・・・」って言われたとしても、それは自分の顔。
つまり自分っていうのは、その人の心。
その心というのは、何もしないと他人には伝わらないようにできているのね。
どんなに愛し合っている二人が額を引っ付けて眠っても、同じ夢を見ることはできないでしょ。
だから言葉や態度というものが大切になるの。
だから、優しさと思いやりと妥協が大切になってくるんだよ。
愛は奪うあうものでも、一方的に押し付けるものでもないから。
心が自分。心を伝えるのが言葉や態度。
だから心を大切にしたいと思うのだよ。
巨椋修(おぐらおさむ)拝