(天照大神)
18世紀後半、日本の国体が著しく変化した。いわゆる明治維新である。
また『明治』年号がつけられる前の慶応4年、大政奉還後にできたばかりの新政府によって「神仏分離令」が出されている。
その目的は、欧米を観て来た倒幕の志士たちが、「西洋列強はキリスト教を元に世界を植民地にしている」と喝破したためであった。新政府の高官たちは、日本にキリスト教をモデルにした宗教を作ろうとした。
それが『国家神道』である。
国家神道は、アマテラスを主神とし、天皇を現人神として、大日本帝国臣民の精神的支柱にしようとした、疑似キリスト教であり、人造宗教であった。
古来為政者というものは、宗教を支配しようとする。ヨーロッパにおけるバチカンと諸国の王たちとの争い。日本における信長と仏教界との戦争。それを知っていたからこそ、秀吉はキリスト教を圧迫し、家康にいたっては、全面的に禁止とし、さらに神道や仏教に氏子檀家制度を強制し、宗教の牙を抜いたのだ。
明治になり、国民は見事にこの国家神道に洗脳された。
天皇陛下のため、戦争にいき、場合によっては「総員玉砕せよ」の命令で集団自殺を繰り返すほどであった。
そういった意味では、国家神道はカルト宗教といってもいいくらいであった。
幕末の志士、明治の元勲たちが、はたしてどれくらい天皇を敬っていたのかはわからない。彼らは尊王の志士を名乗りながら、当時の天皇を「玉(ぎょく)」つまり将棋の王将になぞって、幕府側と天皇の取り合いしていたわけで、長州藩などは天皇を誘拐して長州に連れてこようと計画していたくらいなのだ。
過激な志士たちが、天皇を将棋の王将扱いをしていたとしても、元々天皇を尊ぶ愛国知識人たちが国学や水戸学をおこし、それが幕府は天皇をないがしろにしていると、倒幕へとつながったのは事実である。
それにしても天皇とは、日本とはおもしろい国である。天皇は鎌倉時代から江戸時代の終わりまで、実際に政治にかかわることはなかった。
それでいて例えば江戸時代の天皇家は3万石ほどの領地があり、小大名くらいの収入があったと思われるが、天皇家も宮家公家は幕府に管理されている状態であった。
それが徳川幕府が倒れた途端、君主にされ、さらに現人神にされてしまった。
しかし当時の人の天皇崇拝は大したもので、江戸幕府という巨大権力が崩壊したあと、他の国なら内乱や粛清が続き国は疲弊するものだが、明治維新はほとんどそれがなかった。
それはひとえに「天皇の勅命」があったからといわれている。
1868年(慶応4年)正月、幕府軍VS討幕軍の戦争である鳥羽・伏見の戦いにおいて討幕派の岩倉具視が、「錦のみ旗」なるものを創作。
それを見た幕府軍は逆賊になるのを畏れ、一気に引いていき、最後の将軍となる徳川慶喜は大阪から江戸に逃げ帰っている。幕臣の勝海舟はそれを怒って慶喜に「勝てた戦を!」といったそうだが、慶喜にしてみればそれ以上に逆賊の汚名が嫌であったのであろう。
実際、慶喜が引かなかったら、勝敗はわからなかったと思う。
勝てば官軍というが、勝てば「錦の御旗」は幕府軍のものになるわけだが、慶喜のほうが公家の岩倉具視より尊皇の精神が強かったのかもしれない。
そして新政府は新しい宗教である国家神道を創作。天皇の元で富国強兵を行ったが、それは太平洋戦争となっていく。
そういう意味で、大東亜戦争は国家神道という国家が作ったカルト宗教が起こした大惨事であるといえるだろう。
宗教というのは怖ろしい。
もしかしたら鎌倉時代から江戸時代における天皇は、カトリックの教皇に近い存在であったのかもしれない。
それはいまでも日本人にとって変わらないのかも知れない。
ただ、二度と天皇の名で戦争をしたりするようには、なってほしくないものだ。
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