多くの日本人は「自分は無宗教である」と思っている人が多いかと思う。例えどこかの寺の檀家であったとしても、どこかの神社の氏子であったとしても「自分は無宗教である」と言うのだ。
そのくせちゃんとお墓参りや初詣をする。
日本人にはお墓参りや初詣が宗教儀式である自覚がないという異様さに気が付いていないのだ。
「まあ、墓参りや初詣にはいきますけどね、別に普段から神仏を信じているわけじゃないし、やっぱり私は無宗教ですよ」
と、なんとなく思っている。これが日本独特の宗教観といっていい。
もともと日本人は、ものすごく祟りを気にする民族であった。それは現在でも変わらない。このこともほとんどの日本人は気づいていない。
日本では神も人も祟るのだ。
ごく身近な家族でさえ祟る。
日本にはお盆という風習がある。これは先祖供養の風習なのであるが、先祖であるにもかかわらず迎え火を焚かないと先祖の霊、その家に住んでいたおじいちゃんやおばあちゃんの霊が迷い祖先に祟るというのだ。
水子の霊というのもいて、水子、つまり「水子」とは、流産や死産、人工妊娠中絶などによって、この世に生まれてくることのできなかった子どもや親や兄弟に祟るという。
(ちなみに水子が祟るというのは、1970年代にある宗教団体と墓石屋が水子地蔵というのを大量に作って売り出した一種の霊感商法。水子供養は江戸時代からあったが、水子が祟るという発想はなかったのだが、宗教家から「水子が祟りますよ」言われると、急に「流産や堕胎した子でも祟るのかも・・・」という畏れが見て取れる。(参照:[水子供養は70年代から流行りだした霊感商法である:title=水子供養は70年代から流行りだした霊感商法である])
実は日本人の深層心理に「死者の祟り」「死者の呪い」を畏れるというものがある。例えば出雲大社は大国主(おおくにぬし)という神様をお祀りしたものだが、大国主は国津神(クニツガミ)の代表格。
(※因幡の白ウサギを救ったのは、若き日の大国主であったのでした)
日本の神話では神様には大きく分けて2種類いて、それが高天原(たかまがはら)という天国のようなところに住む天津神。有名どころとしては天照大神(アマテラスオオミカミ)。
もう一つは、高天原と黄泉の国(死者の国)の間にある中津国(なかつくに)に住む神様。中津国というと難しいけど、天国と地獄の中間であるこの地上ってこと。
日本書紀によると、そこに天照大神が「中津国をよこせ」と攻め込んでぶんどったのというのが古事記の国譲りの物語。
天照側もぶんどったのだから、先住の国津神なんぞ祀る必要などないはずなのに、出雲大社というどでかい神社を作って大国主を祀った。
おそらくこれは、天照側が大国主の祟りや呪いを畏れて作ったと考えられるのだ。
平安時代でも、九州大宰府に左遷された菅原道真の祟りを畏れて太宰府天満宮にお祀りされているのは有名な話し。
(菅原道真は死後怨霊となり雷などで都を襲ったため、神に祭り上げられた)
日本では動物園でも動物たちの霊を慰めるために、慰霊碑が立っているところが過半数以上あり慰霊祭なども行う動物園が多い。
おそらく動物園で動物の霊を慰める祭りを行っているのは日本だけではないだろうか?
そして動物たちに「安らかにお眠りください」と手を合わせる人も多いはずだ。なぜ「安らかに・・・」なのだろうか? おそらく「安らかじゃない」というのは怨霊として迷ったり、成仏できないということを防ぐためであろう。
このように日本人は、新しいご先祖であるおじいちゃんやおばあちゃんが亡くなったときも「迷わずに、安らかに眠ってください」と合掌する。「安らかじゃない」ときは自分たちに災厄を招くからだと思っているからだ。
日本人は「私は無宗教です」と公言する人が多い。しかし潜在意識の中で家族やペットですら死者を畏れているのである。
それが日本人の潜在的な宗教観であると私は考えている。