巨椋修(おぐらおさむ)の新世界

作家・漫画家 巨椋修(おぐらおさむ)のブログ。連絡先は osaogu@yahoo.co.jp

呪と祝 言葉は言霊である

きょうはいささか宗教じみた言い回しをする。

と、いっても宗教でもオカルトのことではないので、宗教的なことが苦手な人も安心して読んでいただきたい。

内容は、言葉と精神のことである。



「はじめに言葉(ロゴス)あり、言葉(ロゴス)は神と共にあり」


という聖書の一文を数日前に紹介した。

言葉の持つ力について少し、書く。

日本では古来言葉に力があり、それを『言霊(ことだま)』と呼んだ。

どのような力があるのか?

言葉は人を縛る力がある。

その縛る力こそが、言葉の「定義づけ」である。

犬といわれて猫をイメージする人はいないだろう。いるとすれば、日本語をよくわかっていない人である。

犬という言葉は、人間のイメージを犬と縛るのである。



もし誰かが



「お前に不幸がやってくるであろう!」



と言ったとする。



あなたがその言葉を記憶し、気にしていたとすれば、あなたは


不幸


という言霊に縛られたということになる。













これを呪(しゅ)という。












もし誰かが




「あなたは幸せになりますよ」




と言ったとする。

あなたがその言葉を記憶し、気にしていたとすれば、あなたは



幸せ


という言霊に縛られたということになる。












これを祝(しゅう)という。












これらの言葉を聞いた後、あなたは毎日の日常を普通に暮らすであろう。

普通の生活には、小さな不運と小さな幸運が連続して起こっているものだ。

もし、あなたが不運を気にしていたとしたら、小さな不運に見舞われるたびに、

「ああ、あの人の言った通りだ。わたしは不運なのだ」

と、確信することになるだろう。

この状態を、










「呪いをかけられた」










というのだ。

こうなると、呪いをかけられた人は、不運にばかり意識がいくようになり、石が転げ落ちるように、不運ばかりが目につくようになる。

つまり不幸になる。





逆に、幸運や幸せの言葉である祝(しゅう)、つまり祝いの言葉をかけられ、その言葉を記憶し、気にしている人は、小さな幸運のたびに気持ちが良くなり、幸せという言霊に縛られ、





どんどん幸運を感じることができるようになるであろう。






実は、幸運の人にも不運の人にも、起こっている事象は同じことであったりする。

しかし、呪(しゅ)をかけられるか、祝(しゅう)をかけられるかで、その心理は大きな違いが起こってくる。

やがて呪をかけられた人の顔は暗く狷介になり、より孤独になり不運を呼び寄せる結果になる。

祝をかけられた人の顔は、明るく豊かになり、より人に慕われ幸運を呼び寄せることになる。

実のところ、これはオカルトや宗教ではない。人の心と体はそのように出来ているのです。




では、人から祝(しゅう)ではなく、呪(しゅ)をかけられたときはどうすればいいか?





祓えばいいのです。




祓うといっても、神社にいくことはない。

要は気にとめないこと。

気にとめないことが祓うということとなる。





つまり心の中から呪を祓うのです。






最後に、人に呪・祝をかけるのは他人ばかりではない。

自分で自分にかけることもできる。


自分を幸せにするも、不幸にするも、自分の心次第ということでもありますな。