人はあえて不思議を見たがり、さらに作り出す生き物なのだ。
例えば、ネッシーや雪男などUMA(ユーマ・未確認生物)や幽霊、怪物もそうだ。
ちなみにネッシーは、ある医者がエイプリルフールに冗談で撮った写真だし、ヒマラヤの雪男、イェティは現地語で【熊】という意味で、どうやら勘違いが発祥であるらしい。
カナダのビックフットを撮影したフイルムがあるが、それはヤラセ映像で、着ぐるみを着た人がギャラをもらえなかったというセコイことで告発されている。
オレとしては、UMAや幽霊なんかより、生きている人間の方がよっぽど恐ろしい。
例えば、イギリスの実話として【ソニー・ビーンとその子ども達】というのがある。
怠け者のソニー・ビーン夫婦は、働かずに洞窟で暮らし、ときどき旅人を襲って強盗をしていた。
しかし、それだけでは“食べていけない”ので、襲った人間を殺し、食用にするようになった。
ビーン夫妻には次々に子どもが生まれ、洞窟の中で育っていった。
食糧はもちろん“人肉”である。
その子ども達も近親相姦で子どもを産んだりして、一族は25年間で50人にも増えた。
子ども達は、人を殺し解体し、調理するのが当たり前になっていて、一切の罪悪感はなかったという。
幽霊やUMAとかよりも、生きている人間のほうがよっぽど恐ろしいというわけだ。
むしろ、怨霊とか、崇り、呪いなんてのは、人間が一線を踏み外さないために必要なもので、わざわざ人間の脳が作ったものであろうと思っている。
人が神を創造したがごとくだ。
人が怪異を見るというのも、そういった意味ではいいことかも知れない。
すると巨椋家家訓
「信用できるのは死んだ人間だけだ。やつらは殴り返してこないからな」
っていうのは、犯罪予防としては間違っていることになる。
「人や動物を、みだりにいじめたり殺したりしてはいけないよ。呪われたり祟られたりするからね」
と、いうのが人として正しいのである。
人が怪異をみるというのは、犯罪予防、平和で秩序ある社会を維持していく面で必要なことであるのだろうよ。