「思い知ったかこの間抜け。来ると思ったところに来ないのが闘いの基本じゃないか。来ると思ったところに来るのはお笑いの基本だ! 喧嘩は卑怯な方が勝つのだ。成文化した卑怯こそ武道だ!」
(京極夏彦著 講談社刊 『塗仏の宴』より)
上の文章は、京極夏彦の小説『京極堂シリーズ』の中に出てくるセリフで、主人公の親友の探偵榎木津礼二郎が、ある武道者集団の悪者たちを次々に倒していくときの言葉である。
このセリフを読んでなるほどなと思ったのだよ。
殴ると見せかけて蹴る。
蹴ると見せかけて殴る。
これが武道における戦いの基本。
武道とは成文化された卑怯道なのだ。
中には薩摩の示現流剣法のように、ほとんど小細工は労せずひたぶるに打ち込む武術もあるが、こういうのは極めて稀な例。
(もっとも、実際の斬り合いになれば、こんな怖い剣法はない。フェイントも何も通じないであろうし・・・)
とはいえ、示現流が極めて稀な剣法であるいうことからも、フェイントを使う“卑怯”な技術がとても有効であるということを示している。
では卑怯とは何であろう? Weblio辞書によると
正々堂々としていないこと。正面から事に立ち向かう潔さがないこと。また,そのさま。卑劣。
気が弱く意気地がないこと。弱々しいこと。また,そのさま。
と、ある。
いいじゃないか卑怯!
これはまさに武道の極意である!
日本武道の極意は、「強がらない・強そうに見せない」ことにあるのだ!
強そうに見えれば敵は全力でかかってくる。敵は他にも仲間を集めてかかってくるかもしれない。しかし弱そうに見えれば、舐めてかかってきてくれる。それだけ有利に戦えるのだ。
そして「殺人刀」よりも「活人剣」が尊ばれるのだ。
剣術や武術は、日本以外では人殺しの技術である。
しかし日本武術は極力人を殺さないようにし、傷つけることさえ避ける。さらには争わないようにする。
柔道にその痕跡がある。柔道の投げ技はわざわざ受身を取らせるような形で投げて一本となる。
柔道の抑え込みは、相手を極力傷つけずに制する技であり、絞め技は殺さずに失神させる技なのだ。
いまでこそ、相手を背中をつけるように投げると勝ち、20秒抑え込めば勝ちというスポーツゲームとなっているが、本来は殺さず傷つけずに敵を制するというのが柔道精神、日本武道精神なのだ。
実のところ日本は格闘技大国で、日本から柔道、剣道、空手、合気道、少林寺拳法、忍術といった格闘技が世界中に広まっている。
これだけ多様な武術が世界に広まっていったのは日本くらいではあるまいか?
それは日本の格闘技の殺人刀よりも活人剣を上等とし、勝つことよりも「和」を重視する精神性が世界中の人々に受け入れられたからではあるまいか?
本当は強いのに、弱く見せる人は“卑怯”なのかも知れない。
でもそれが卑怯であるならば、卑怯でいいのだ。
むしろ独善的な正義を主張する人のほうが私は信用できないし、嫌いだな。
巨椋修(おぐらおさむ)拝