オレは学校で何かを学んだという記憶がない。
いまオレが漢字を読み書きできるのは、少年マガジン、少年サンデー、ジャンプといったマンガのおかげである。
つまり科目でいうと【国語】と【社会】はマンガで勉強したということになる。
そして【歴史】は司馬遼太郎さんの小説がはじまりであった。
はじめて司馬さんの小説を読んだのは、中学生のときであった。オレはその小説を読む直前に、小松左京さんのSF小説「日本沈没」、吉川英治さんの「宮本武蔵」を読もうとして挫折した記憶がある。当時の読解力ではムリだったのだろう。
しかし司馬遼太郎は読めた。
めちゃめちゃ面白かったのだ。
仕事できのうきょうと司馬さんの小説を読み返している。
そして驚いた。
文章がびっくりするほど【冷たい】のだ。
【乾いている】と表現してもいい。
他の作家のように、湿度や粘り気がないのである。
漢字もロクに読めないガキが、司馬さんの小説を読めたのは、この【冷たさ】のせいであったかもしれない。
司馬さんが新撰組の土方歳三を描いた「燃えよ剣」という作品がある。
いま本が手元にないので、正確ではないが、その中で、若き土方が村を歩いているときに知人とすれ違うというシーンがある。そのとき司馬さんは土方の心中をこのように表現していたと思う。
【まさかこれから女をころしにいくともいえず……】
ころしにいくとは、犯しにいくということである。そしてその後、【犯した】という表現も出てくる。
女性の権利にうるさい読者なら眉をひそめる表現であるが、どの読者も気にしない。
気にしないどころか、女性は土方に惹かれていく。
そして話は淡々と進んでいく。
文章が乾いているのだ。
読みやすい小説にありがちな、セリフが多く、改行が多いということもない。セリフは、むしろ少ない。改行も少ないのだが実にリズミカルに読ませていく。
この作者には、優しさなどないのかと思わせるほど淡々とストーリーが進んでゆく。
それでいて読んでいる方が、勝手に優しくなっていくような錯覚におちいる。
司馬遼太郎という人は一代の奇才であり、天才なのであろう。
人と時代劇の話をしていると、「この人は司馬遼太郎を読んだな。しかもあの本だ」と、わかるときがある。
これは、司馬遼太郎の作品でフィクションの部分を、歴史そのものと勘違いをしてしまうためで、坂本龍馬のイメージなども司馬さんがいい意味で変えた人物といえる。
悪い意味で変わってしまったのが、以前の千円札、伊藤博文で、司馬さんの小説を読んだ人はほとんど「伊藤博文など小物だ」などといったりするから天才作家の創ったイメージとはおそろしい。
と、いうことはこのHPを読んでいる人は、巨椋修という人物像がこのサイトのイメージでひどくゆがめられているかも知れない。
このサイトの巨椋修像は、作家・巨椋修が創作したキャラクターで、実物は
【謹厳実直】
【容姿端麗】
【頭脳明晰】
な人物なのである。
しかしそんな人物は、あまり面白みがないので、あえて
【奇妙奇天烈】
【容貌魁偉】
【言語道断】
【奇奇怪怪】
と、見得を張っているのだ。
見得を張らねばならないところが、天才司馬遼太郎との決定的な違いかも知れない。